昭和五十六年二月三日 朝の御理解
御理解第二十六節
信心に連は要らぬ濁り信心せよ信心に連が要れば死ぬるにも連が要ろうが皆逃げておるぞ日に日に生きるが信心なり
日に日二生きるが信心なりと。そういう信心を体得させて頂き、そこから自らの助かり、そしてそこからその信心にたく山のまあいうならば連が出けるようなおかげも頂かねばならぬという事だと思うです。自分がいよいよ日に日に生きる事が信心だと分るまでが独り信心せよというような事ではないでせうか。自分が助からずなかなか人は助かりません。芳井から波多野さんという方がもう樺目合楽を通してですから二十年信心を今度の御理解付きの福引きを引き当てられたのは福引を受けられる時に、私も成る程本当にそうだと思ったんですけれども「ただひたすらに」というくじを引かれました。もうただひたすら信心を続けてこられた。かというてなら連が出けるわけでもなし、肝心な子供達がついてくる事でもないのですけれどもただ自らの助かりを求めてただいたずらに信心の道を極め自らの助かりを願うて来られた。まあそういうタイプの方なんです。
昨日、一昨日でしたでせか、のお届けにこんなにもう有難い神様有難い信心、こんなに有難い合楽教会に御神縁を頂いたという事がただただ有難い。この有難いのを子供達が家族の者が周辺の人達がいや親先生が願はれる和賀心時代を世界にといわれる世界中の人達が頂きなさったら世界中どのように住みよいすばらしい有難い事になるだろうかというお届けをなさいました。それを聞かせて頂いて信心は容易と云われるけれども、容易い事はないなあ自分が助かるという事はなり合楽理念に基づけば容易いのである。どんな場合であっても有難いとお礼が出るように説かれてあるのであり又それが事実であり、それに又おかげが伴うてくるのであるから容易いのですけれどもなりそれを人に伝えていくという事はなかなかもって難しいと思うのです。
だから先ずは日に日に生きるが信心なりという、そういう深刻な信心が先ずは自分の心の中に預ける事。先ずは私自身が助かる事。ただいたずらにその事を願い続けて信心させてもらい、おかげを受けていかねばならない。どんな場合であっても和賀心、それがシンであり焦点である、
これは昨日でしたでしようかやっぱり波多野さんのお届けに、今朝目覚ましのおかげを頂きました。ちょっと時間が早いなあと思うてやすませて一眠りさせて頂こうかと思うたけれども、いやいや神様が目を覚まさせて下さったのだから、起ころして頂こうと起きたりやっぱりいつもの時間であった。もし眠むっておったら遅れなければならん所だった。本当に恐れ入りますと同時に信心にはそうしたちょっとしたいつも修業野心がなからなければいたないという意味のお届けをなさいました。まあちょっと早いまだ実際ちょつと眠むたくもある、まあ一眠りしようかそこん所をいよいよ目覚ましいのおかげを頂いたという事が神様が起こして下さったんだと起きこして頂けたら早すぎるのじあなかった、丁度よい時間に目覚ましのおかげを頂いておったというのであります。
日に日に生きるが信心なりという内容は私はそういうようなものじあないでせうか。又そういういつもいつもこう信心の山坂を上るのと同じと云われるように、ちょっとした瓜坂上りを上っておる位な修業の心が絶えずなからなければならないという事であります。
私は今朝方お夢を頂いた。『まあどこに居ったかのか、まあ山のような所へ上っておって次の広場に出る為には段が付いておってそこに梯子か、ここに修業しとります三上洋一君が「親先生あちらに廻わると大変遠道になりますからこゝから下りて下さいというて簡単な梯子をかけてくれた。私はなかなかああいう何んちゅうですか、高所恐怖症しちゅうでしようか、高い所へはなかなか上れない、それに梯子をしかも紋付き袴付けてあのおりますからまあ恐わかったけれども、こわごわ下りさせて頂いた。そしたらその先が又もうそれこそ三階も四階建ての家位の高さ、下を見るとこう目がまうような所に下へ下りなければならんから、いやとてもこげんな所は自分なとても下りられん。そこには大きなぼん綱引きの説きに使うようなあのしよろ縄が上から下までずうっと下ってそれにブラ下って下りらんならんというような所であった。それで私は初めからとてもこげな、ごげなつと、はなれ技な事はしやきらんと云うてまあしておりましたら、若い方が小さい赤ちゃんを〓一方にうだいて(抱いての表現)そしてその縄をつたってもう何気ないふうでもうするすると下りていかれるのを見てから私がはあああいう〓一方には子供さんを抱いてからでも下りられる位ならば下りられん事はなかろうと云うてまあ私がそこを下りたりら、スリルもありますけれども楽しいような気持で下へ下りた所であった。下はもう広々とした野原でありました。そしたら上からあの豊美がどっか他よそ行きの着物を着ながら親先生のような臆病もんでも下りられたのだからじふんも下りられん事はなかろうと云うたり思うたりしておるような感じでそれに伝わって下りてくる所を頂いたんです。だからどうでも信心には私は度胸がいるなという事でございます。
昨日あちらは大分の支部の本田さんという方があちらで毎日共励会もあっております。お参りしてみえて、こう分厚い手紙を置いて行かれました。実は娘から手紙がまいりました。後でお読み頂きたい。私は腹が決まっておりますけれどもまあこういう手紙がまいりましたからいうて手紙を置いていかれた。まあ細い字で書いてあるから読めませんから恒行先生そこに居ったから読んでもらいました。もうまあ親が子供に切々と書く手紙のように子供が親に切々と書いてるんです。というのは、お母さん金光様の信心を止めよとは云いません、けれども子供達が皆反対をしております、親戚中でも此の頃親戚の寄り名にか寄りがあった時にもう大変なまあ悪言憎言を聞きましたともう長年続いてきた本田云えの先祖も何も金光様の信心するともうどけんななるじや分からんというて皆心配しとります。
私も今は出けませんけれども親孝行は私達がするから金光様の信心をもう少しひかえ目にして下さい。主人もやさしい人ですから俺達が少し余裕が出たら両親にお金でもちっと送ろうと云うような話しもしとおる位で親孝行したいと思いますけれどもお母さんがあまり熱心に金光様の信心にいうならば迷うておる家には先祖代々の御先祖様があるのだからその辺の所をどうぞ、と云うような感じでね、金光様の信心をはいかえてくれいうような何か金光様の信心にその金やら財産まで上げてしまいよるようなふうに誤解しとるのかもしれませんね。あまり熱心なもんですから。
成る程そういえば御主人が心を向けておられる時分にもう改式はしてありませんけれどももう改式でもされたら大変、金光様の信心ちやどけな信心か知らんけれども、子供達一同での願いを親が子にそれを悪く云うじやないけれどもそれこそ切々と信心をまあ止めろとは云はんけれども、もう少しひかえてくれ子供達だけではない親戚の者までがそういう願いをもっているからというて手紙が、もう長い長い手紙にいっぱい書いてございました。子供から分らんのですから、まあ子供の心も分からんのではないのですけれども、そういういうならば知らない人、分らない人達に云うなら話しをして上げれる分らせ得れるだけの信心そしてならお母さんを見なさいこんなおかげも頂いて行けるじやないのというふうな所まではまだまだけれどもそういう時に、子供達やら親戚が皆反対するからと云うてそれを中絶したり止めたりするというような事では出けない。
まあ昨日私は腹はもう決まった誰が何んといおうとも金光様の御信心を止めるような事は致しませんけれどもというわけですけれどもね、信心の過程においてはそういう時もあるのですから、それこそ一人ひそかに信心せよという所がいるんです信心には、合楽に御縁を頂いて金光様の信心を合楽理念を通して分らせて頂けたらこんなすばらしい信心こんなすばらしいおかげの受けられるこんなに有難い信心はない波多野さんじあないけれども、それを思われる、
それが頂けれる御信心なんですけれども、そういう時にいうなら今日私がお夢の名かに頂いた子供もついてくるようなおかげを頂く為にはちった恐いけれども梯子を下りた方が早道である時もあるし又はそれこそまあその四階建てのそういうこの高い崖から一歩のロープにすがって下りなければならないといったような度胸、度胸をすえれば少しのスリルこそあれ兎に角まあ何か愉快な楽しいようなものそさえある。もう始めからいや私はこんな所からロープをつたって下りるという事は出けないと思うておる私にも神様が若い青年の方、しかも〓一方には子供を抱いてからでもするすると下りられるような演出があって、こんなに自分でも下りられるかも知れんと度胸を定めさせて下さって下りさしてもらう。下りた後には子供もやっぱりついて下りてきておる。そこに広々としたいうならば合楽世界があるというふうに思うです。
だから信心はあせってはなりませんけれども、願いは祈りは持たねばなりませんけれどもただひたすらに自分の心の救われる、そして合楽で云われる合楽理念に基づいて和賀心時代を自分の一家に自分の周辺にも広げていけれるこういう心の状態になれたら世の中がどんなに有難い平和な世界が生まれるだろうかと思うたりいよいよ自分のよい助かりを願はせてもらうてそれが子にも孫にも伝わっていくようなおかげを頂く。
そこには、ただ信心が長く続いておるというのではなくて、ただひたすらに日に日に生きるが信心なりといったような日に日におかげを受けるのが信心ならではありません日に日に生きるが信心なら、それにはいつも神様に心を向ける、その心の中にいつも修業の心を忘れずに信心を進めていかねばいけない。信心は容易いもの自分自身が頂くこうとすればこんなに容易うして有難うして楽しいことはないのだけれども、信心を嫌いな人、信心を知ろうとしない人に伝えていく事はいよいよ日に日に生きるが信心なりといった信心をいよいよ見につけなければいうなら連は出けない。連は要らんそこにいたら神様に向ける。その先にはやはり自分の助かっていく状態を周辺にも広げていけれるようなおかげも頂かなけれはならない為に信心に連は要らんと仰せられたのではないでしようか。
どうぞ